赤飯太郎のサッカー日記

自由気ままにサッカーについてブログに書き綴っていきます。7割以上がチェルシーに関するものとなると思います。

自己紹介 〜第2章:ロンドンでの贅沢な観戦生活と野球・テニスへの浮気〜

先日より始めてみたブログ。

今回は先日第1章を書いたサポーター半生の第2章を書きたいと思います!

 

とはいえ、実は今回は途中からサッカーから離れまくります(笑)

サッカーサポやってると、ちょっと追いかけられていない期間があると他のサポーターに対して若干負い目を感じますよね....w

そんな方は盛大に離れまくった私を見て少しでも勇気を出していただければと思います。

 

①Chelseaファンとして過ごしたロンドンでの1年間

初めてスタンフォードブリッジを訪れたのが小学校4年生の頃。

そこから小学5年生の終わりまで私はロンドンにいたので、この期間はどっぷりとチェルシーに浸かっておりました。

 

シーズンで言うと、初めてスタンフォードブリッジに行ったのが小4の02-03シーズン。

本格的にチェルシーを追いかけたのが小5になった03-04シーズンって感じですね。

ちなみに03-04シーズンはアブラモビッチ新オーナーが誕生したシーズン。

その辺も子供の時はあまり理解していなかったですがw

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当時観に行った試合は必ずと言っていいほどクレスポ選手が活躍していたのを覚えています。

そして写真でクレスポ選手が着ているこのAwayユニ。

個人的にはチェルシー歴代ユニの中でもかなり好きで、大人になってもヤフオクなどで売っていないか探しちゃってました。

 

私が観戦し始めた03-04シーズンはまさにアーセナル絶頂期で、無敗優勝を達成したシーズンでした。

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当時はライバルながらアーセナルのホームユニフォームも欲しくなるくらい、アンリやリュンベリ、ピレスなど魅力的な選手ばかりで「無敵すぎるでしょ...」と思いながらテレビを観ていたものです。

(この「O2」と書いてあるユニ、友達が着ていて本当に羨ましかった...)

 

これは余談ですが、03-04シーズンに私は初めて名前入りユニフォームを買ってもらいました。

その時に父親から「どの選手にしたい?」と言われ、当時スタジアムにあるチェルシーショップで30分以上悩んだのも覚えています。

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結果的に私は大好きだったダミアン・ダフのユニフォームではなく、ベッカム以来憧れを抱いていた7番を背負うことに固執し、アドリアン・ムトゥのユニを入れてもらいました。

なんであの時ダフにしなかったのか。

今でもずっと悔やんでも悔やみきれません(笑)

(そんな私はこの約10年後、ダフのアイルランド代表ユニを買っていますw)

 

とはいえ、そんなこんなで定期的にスタジアムに観戦に行きながら、私のロンドン生活は大変充実しており本当にこの頃の記憶はサッカーに関わるものばかりでした。

 

アメリカ転居、興味は野球へ

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小学校5年生が終わる2004年3月、私の父から今度はアメリカのニューヨークに転勤になったことを伝えられました。

あと1年でロンドンの小学校を卒業する予定だった私にとって、このお別れも中々に辛かった記憶があります。

海外に住めたことは自分にとって大きな財産ですが、転校が多いのはやっぱり大変でした。。

 

そしてこのアメリカ転居をきっかけに、私はサッカーから一旦離れることになります。

私がいた地域が特にそうだったのかもしれませんが、当時アメリカではまだまだ現在のようにサッカー人気が高くなく、小学校の休み時間ではどの子供たちもアメフトやバスケで遊んでいました。

※ロンドン在住時、私は日本人学校に通っていたのでアメリカに渡った時も英語はカタコトしか話せませんでした。なので「Football」と話しても向こうはアメフトと認識するので最初はコミュニケーションに戸惑ったりしたのも良い思い出です。

 

アメリカへの転校当初は休み時間に仲の良かった韓国人の友達とサッカーをやっていた私でしたが、自宅に戻ってTVで放映しているスポーツ中継は基本野球が多かった。

アメフトはルールが分からず、NBAにはなぜかあまり惹かれず、結局は大半の時間を野球観戦して過ごすようになりました。

 

私が住んでいたのがニューヨークということで、基本中継はヤンキースが多かったのですが、何と言っても当時は松井秀喜選手が所属していたので自然とヤンキースを応援するようになっていきました。

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こうなってくるとサッカー中継もなかった私は、次第に興味の対象が野球に傾くようになり、どんどんサッカーから離れていくようになりました。

 

③テニス界の(自分にとっての)アイドルとの出会い

ロンドン時代から続けていたテニスはアメリカに来た後も続けていました。

アメリカはイギリスよりも遥かにテニスを気軽にできる環境が揃っていて、地域の高校にいつでも無料で使えるハードコートが15面くらいありました....都内でコート1面借りるのも大変な日本じゃ考えられない....。

 

アメリカではテニスの試合中継もよくやっていたので、私は野球と共にテニスのトッププロの試合を観戦する機会が増えていきました。

そんな中で私は1名の選手と出会います。

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レイトン・ヒューイット

ポイントをとったり、試合に勝つたびに「カモン!!」と叫ぶ姿や、フットワークを活かしたプレースタイルも当時の私にとってドストレートの好みでした。

そんなヒューイットに完全にどハマりした私は、四大大会含め沢山の試合をテレビ観戦するように なり、テニス熱もどんどん高くなっていきました。

 

この頃にはもはやスポーツで観戦するのは野球かテニスのみ。

当時はSNSもなかったので、中々チェルシーの情報などを得る機会はありませんでした。

 

今考えると、04-05と05-06シーズンはちょうどチェルシーが50年ぶりの優勝、そして連覇とまさに第一次モウリーニョ体制の絶頂期だったわけです。

 もう1年ロンドンを離れるのが遅ければ、、、今になってそんなことを考えます。

 

ウイニングイレブン7

そんなサッカーから離れた私も、ゲームではサッカーと関わり続けていました。

恐らく大人になった今でも最も長くプレイしたのが「ウイニングイレブン7」でした。

(次点でウイイレ10。「厳しいプレスも鮮やかに抜きされ!×3」のOPがとても好きだった。)

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ずーっとプレイしていたのはマスターリーグ。

ミナンダとかカストロとか、今でも懐かしい.....。

 

そんなこんなでサッカーから離れまくった私ですが、

2005年にアメリカの小学校を卒業し、いよいよ日本へ帰国となります。

そこから本当に徐々に徐々にではありますが、サッカー熱が蘇ってきます。

(とはいえ、今のような熱量になるまではまだまだかかりますが)

 

続きは第3章でお話しできればと思います!